建て替え立退き交渉
1.はじめに
先般、当事務所において、都内の収益ビルを所有するオーナー様から、建替えを見据えたテナント明渡しに関するご相談を受けました。
対象建物は、都心部の駅徒歩圏に所在する中規模の事務所・店舗ビルであり、築後相当年数が経過していました。
1階には店舗テナント、上層階には事務所テナントが入居しており、対象テナントの月額賃料は共益費を含め数百万円でした。
オーナー様としては、単なる老朽化対応にとどまらず、建替えにより建物の競争力を回復し、保有不動産の収益性及び資産価値を再構築することを検討されていました。
他方、対象テナントは長期にわたり営業を継続しており、普通建物賃貸借契約に基づく強い保護を受け得る状況にありました。
2.事案の概要
対象テナントとの賃貸借契約は、期間満了後に法定更新され、期間の定めのない普通建物賃貸借として継続していました。
テナントは、当該ビル内において長期間事業を営んでおり、移転により顧客対応、従業員の通勤、営業上の信用及び取引先との関係に一定の影響が生じ得る事情がありました。
このような事案において、賃貸人が一方的に「建替えを予定している」ことのみを理由として、直ちに明渡しを実現できるわけではありません。
期間の定めのない建物賃貸借について賃貸人が解約申入れをする場合、借地借家法27条1項により、解約申入れから6か月を経過することが必要となります。
もっとも、同法28条により、更新拒絶又は解約申入れには正当事由が必要です。
正当事由の判断においては、賃貸人及び賃借人の建物使用の必要性、従前の賃貸借関係、建物の利用状況及び現況、ならびに賃貸人が明渡しの条件として申し出る財産上の給付が総合考慮されます。
3.受任後に行った法的・事実的整理
本件では、テナントに対する解約申入れ又は明渡交渉に着手する前提として、まず対象賃貸借契約の法的性質及び建替え計画の実現可能性を確認しました。
はじめに、賃貸借契約書、更新覚書及び従前の交渉記録を精査し、対象契約が期間の定めのない普通建物賃貸借として継続していること、賃貸人側に当然の中途解約権を認める特約が存在しないことを確認しました。
このため、本件では、単に契約上の解約条項に依拠するのではなく、借地借家法27条及び28条を前提として、解約申入れ又は更新拒絶を行う場合の正当事由をどのように構成するかが中心的な検討課題となりました
次に、オーナー側の建替え計画について、建物の竣工後の経過年数、過去の修繕履歴、設備更新の必要性、維持保全に要する将来コスト、設計・施工に関する検討状況及び資金計画を確認しました。
この点、建物が直ちに危険な状態にあることや、使用継続が不可能であることを前提とする必要はありません。
むしろ、建物の使用継続が可能であったとしても、老朽化に伴う維持管理上の負担、設備の陳腐化、今後見込まれる更新投資及び建替え事業の具体性等を踏まえ、オーナー側に建替えを必要とする合理的事情があるかを検討することになります。
また、借地借家法28条における正当事由は、賃貸人側の事情のみで判断されるものではありません。テナント側についても、当該物件を使用する必要性、入居期間、業種、営業形態、代替物件の確保可能性等を把握し、明渡しに伴う支障の程度を見通す必要があります。
本件では、これらの事情を整理した結果、建替え計画には一定の具体性が認められる一方、対象テナントも長期にわたり当該物件を営業拠点として使用しており、オーナー側の建替え需要のみを前面に出した交渉では合意形成が困難であると判断しました。
4.解決条件及び立退料の設計
前記の法的・事実的整理を踏まえ、本件では、明渡しを求める根拠の説明と、テナントの移転負担を踏まえた解決条件の提示とを一体として設計しました。
ビルテナントとの立退交渉においては、立退料を単に「月額賃料の何か月分」として算出することは相当ではありません。
特に、月額賃料が数百万円規模のテナントについては、移転によって生じる実費、営業上の影響及び移転先確保の難易度を個別に検討する必要があります。
本件では、テナントから提出を受けた資料及びヒアリング内容を踏まえ、以下の項目を中心に、解決条件の合理性を検討しました。
| 検討項目 | 主な確認事項 |
|---|---|
| 移転実費 | 什器・備品の搬出入、内装解体、原状回復、通信設備・サーバー移設等 |
| 新規出店・入居費用 | 保証金、礼金、仲介手数料、前払賃料、内装・設備工事費 |
| 賃料水準の変動 | 代替物件における賃料・共益費の水準、現賃料との差額 |
| 営業上の支障 | 移転に伴う顧客対応、取引先への告知、営業停止・縮小の可能性 |
| 明渡条件 | 明渡期限、原状回復義務の範囲、保証金・敷金の精算時期、残置物の処理 |
立退料は、借地借家法28条において、賃貸人が明渡しの条件として提示する財産上の給付として、正当事由の判断において考慮される要素の一つです。
もっとも、立退料は、正当事由の不足を金銭のみで補うためのものではなく、テナントが被る具体的な移転負担を踏まえ、当事者間の利害を調整するための解決条件として位置付けるべきです。
本件では、立退料の支払いに加え、明渡期限に相当の猶予を設け、原状回復義務の取扱いを調整し、保証金の精算時期を明確化する内容で条件提示を行いました。
これにより、テナント側においても移転準備及び資金手当ての見通しを立てやすくなり、最終的には合意解除契約の締結に至りました。
5.交渉の経過
テナントに対しては、オーナー側の建替え計画が相応の具体性を有すること、直ちに明渡しを求めるものではなく、移転準備に必要な期間を考慮すること、移転に伴う合理的な負担については協議に応じる方針であることを、書面及び面談により説明しました。
対象テナントからは、移転先での内装工事費用、通信設備の移設費用、移転に伴う営業上の影響及び賃料負担の増加を踏まえた補償を求める意見が示されました。
そこで、テナント側の主張を具体的な資料により確認しつつ、建替え事業の収支との均衡も踏まえ、立退料、明渡期限、原状回復の範囲及び敷金精算を一体として協議しました。
最終的には、一定の立退料の支払いに加え、明渡時期をテナントの移転準備に配慮した時期に設定し、原状回復義務の一部を免除する内容で合意に至りました。
合意書には、明渡日、立退料の額及び支払時期、明渡しの方法、原状回復の範囲、敷金の精算、残置物の処理及び相互の債権債務の不存在を明記しました。
6.実務上の検討事項
ビルテナントの立退交渉においては、少なくとも次の点を事前に検討しておく必要があります。
賃貸借契約の法的性質の確認
普通建物賃貸借か定期建物賃貸借か、期間の定めの有無、中途解約条項及び更新条項を確認します。定期建物賃貸借であれば、契約終了場面における検討枠組みが異なり得ます。
正当事由に関する事実の整理
建替え計画の具体性、建物の現況、修繕・更新の必要性、オーナー側及びテナント側の使用必要性を、客観的資料に基づいて整理します。建替え又は高度利用の意向があることのみで、直ちに明渡請求が認められるものではありません。
テナント固有の移転障害の把握
店舗か事務所か、業種、顧客の来店型・訪問型の別、内装・設備投資の規模、従業員数及び移転先の必要条件等により、移転に伴う負担は大きく異なります。
立退料を含む解決条件の設計
立退料だけでなく、明渡期限、原状回復義務、保証金・敷金の扱い、残置物処理及び移転支援の有無を含め、全体として合理的な解決条件を設計する必要があります。
記録化及び合意書の整備
通知書、協議書面、面談記録、提示条件及びテナント側から提出された資料は、交渉の各段階で記録化すべきです。合意に至った場合は、合意解除契約書又は明渡しに関する合意書を作成し、後日の紛争を防止する必要があります。
7.まとめ
月額賃料が数百万円規模となるビルテナントの立退交渉では、立退料の金額だけではなく、テナントの営業継続、移転先の確保、内装・設備投資、従業員対応及びオーナー側の建替えスケジュールが複合的に問題となります。
普通建物賃貸借においては、6か月前の解約申入れを行っただけで明渡しが実現するわけではなく、借地借家法28条に基づく正当事由が必要です。
したがって、オーナーとしては、建替え計画の具体性及び建物保有上の必要性を整理した上で、テナント側の個別事情にも配慮した解決条件を設計し、書面に基づく慎重な交渉を進めることが重要です。


